ニューヨーク特派員報告
第44回

Re.フィードバック


 11年ぶりに年越しを日本で迎えた。両親、友人、恩人に音楽仲間達と、毎日、お互いのブランクを埋めるがごとく尽きない話に花を咲かせまくった。御節や、雑煮を食べたり、姪や甥と遊んだりと、日本の正月を満喫した。実家のある星ヶ丘には、小奇麗なモールができあがって、嘗てオリエンタル中村があった頃とはすっかり違う雰囲気になっていて、懐かしい人々に会うまでは、里帰りというよりは、旅に来た様な気分だった。

ニューヨークの場合、年越しのカウントダウンは、ホリデーシーズンの最終行事の様なもので、全米からあつまった米国人達がタイムズスクエアで年明けとともにスコットランド民謡の『ホタルの光』をBGMに誰彼構わずキスをしまくった後、泥酔した連中達が街中にあふれて大騒ぎするが、日本の場合は、『紅白歌合戦』の最後に『螢の光』が歌われ、除夜の鐘とともに、荘厳な雰囲気のなか年があけ神社は着物を纏った参拝客で溢れる。子供の頃は、祖父の家で3世代そろって、青年の頃はELLで、年を越したものだったが、今回は長旅の疲れと年越しにも馴れてしまって、零時過ぎにはさっさと床についた。

渡米するまで僕は、今池に居住し名古屋を中心にバンド活動を6年間つづけていて、東京、京都や大阪へほぼ毎月ツアーし、インディーズから何枚かのCDもリリースした。今池の新聞屋に住み込みして高校に通っていた僕は、名古屋のポストパンクを掲げる『今池ロッカーズ』の人々に触発された。アングラロックを奏で、夜な夜な仲間達と打ち上げで合流し、ロックや人生について熱く語り合ったり、新たな企画をねったり、女の子を口説いたり、バカを競ったりする日々を送っていた。

日本へ帰ると、そういった凍結していた過去の話しの続編にお目にかかることになり、それは尽く現実的であったりもする。年を重ねる事は素晴らしい事と同時に、時の経過は我々の物質的『若さ』を奪っていく。多民族スープのニューヨークで、外国人というある種無責任なスタンスで関わっていける社会の温湯でふやけた僕の日本人としてのアイデンティティは、度々その続編という『玉手箱のけむり』を回避しきれない状態に追い込まれることもあり、アメリカ気触れな奴だと思われないようにしながら、しかし、なつかしい名古屋の味にこぼれ落ちる涙を隠すのであった。

昔住んでいた下北沢にある、何やらノートパソコンに打ち込んでる客達と、愛想のとても良いウエイトレスのいるまったりと居心地の良い喫茶店で、12年振りに、フラワーカンパニーズのケースケ君とランチした。フラカンは昔、僕の主催した企画に出てもらって、彼とは一緒に故美空ひばりの歌をデュエットした事もある。共通の知り合いの続編話しをしたり、励ましあったりした。フラカンの活躍振りは、海を超えて僕を刺激しつづけている。

そんな続編の話にも登場した嘗てELLを僕と2分した変態ボーカリストの中川氏(エゴンシーレ)が、ニューヨークに遊びに来た。しかも僕と同じ日に、僕のアパートのすぐ近くに。中川氏の世間をシニカルに鋭く風刺した文学的な歌詞と、観る者達が陵辱されているような錯覚を起こしかねないくらいアグレッシブを超えた型破りなパフォーマンスは、そのあまりの変態度の高さから、当時、カリスマ的人気を誇っていた。氷点下15度の夜、僕は、彼を誘って、ローワーイーストサイドのクラブを梯子したりインド料理を食べたりして、親睦を深めた。

日本を離れる最後の夜は、『今池式』のウォーターズの樋口さんのバンドThe Absoludeが主催するモッズパーティーへ行った。東京からはプライベーツと、イギリスからは、ノーザンソウルの踊りの素晴らしいDJを交え、名古屋の若いモッズ系のバンドなども参加していた。VIP席には、懐かしい今池の仲間達がいて、大いに盛り上がった。樋口さんのベースは前にもまして、ノリが良かった。みんな、タイに移住しているシュウちゃんの津波による安否を心配していた。

僕の不在を立証する為の接点としてこの『オオスプレス』に枠を設けて頂いている効果を、今回、思いのほか人々(我が母を含め)のフィードバックから感じた。ブンテイ君の店、グラシアスで会った『激情ロードショー』の執筆者三上淳君に、『難しい事を解りやすく書いていますね。』などと誉められると、紙面(ウエブ)の上での繋がりが、次元を超えたような気がした。実名で文を書く責任をひしひしと感じつつ、読者に感謝!

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