ニューヨーク特派員報告
第111回

世代とコミュニティーとロック


先日、ジョン・ライドンの義理の娘で、スリッツというポストパンクバンドのボーカルだった、アリ・アップの訃報を知った。何年か前に、CBGBの閉鎖反対ベネフィットコンサートで、対バンさせてもらった事があった。彼女は、長いドレッドで実際の年よりずっと若くみえ、動きもキビキビしていた。あの夜の会場で僕は「青臭いガキ」に戻ったみたいで、居心地がノスタルジックだった。普段、ライブの客といえば若い連中が多いけど、その時は、80年代前半あたりリアルタイムは尖っていた元パンクス達だらけだった。久しぶりに再結成したブッシュ・テトラスを見る為に集結した大人の群衆は、ちょっとインテラクチュアルさすら漂っていた。

ロックは、青臭さだと言われる事がある。自我が芽生え始めた時に生じる個の発する音。型にハマった大人になりたくない的なあがき、社会や常識に対する反発、そしてそれゆえの閉塞感など。若者の持つ特有の不安定さに作用しやすいトピックがあり、時に過激で攻撃的ですらあるスタイルは、その「抗い」のアティテュードとともに同世代へ共鳴し、国境をもこえる。ロンドンでのフラストレーションは、東京やニューヨークにも当てはまったりする。真っ赤になってインディケータの天井を超えようとしているあの歪んだギターの音色は、溢れんばかりのエネルギーを象徴しているように感じる。そういった可聴域を超えた周波数の共鳴とも言うべき経験は(((アタマのどっかに亡霊みたく宿っている。))))

今池ロッカーズは、80年代初頭のニューヨークアンダーグラウンド/ノーウェーブに共時進行していた東京ロッカーズに呼応しているものでもあったといえよう。今は廃盤になって入手困難な、86年発売の「アンダーグラウンドロマンス」というオムニバスアルバム。当時のハックフィンで録音され、割礼、バーナムやガラス玉などが収録されている。流通の大衆化などからくる時差的なものがあるにしろ、その実験的な内容は「ノー・ニューヨーク」に通じるものを感じる。こういった"Do It Yourself"の精神で制作された作品のモチベーションは純度が高いから、今池に住んでいた僕にはリアリティというものを持って伝わってきた。いまだ、そこには名古屋特有の「ご当地ロック」の源泉を感じてならない。

その DIYのスピリットは、 昭和末期のサブカル系の雑誌などが中心となって、インディーズとか、ストリートロックなどと呼び、 あえて大量生産される商業的な音楽(トレンドに左右され消費を目的としたもの)と差別化をはかり、ひとつのストラテジーとしてもてはやした。アーティストが表現の自由を最優先し、独自の方法論を駆使したので、ユニークなバンドが沢山出てきた。ライブハウスは、そういった音楽に遭遇することのできる宝箱のような場所であった。その距離感や温度は、演奏者のバイブが伝わりやすいから、エネルギーに満ちた音や歌は、その場の空気を塗り替えるのを肌で感じ取る事ができるし、想定外のハプニングもしばしば目撃できる。

音楽の進化は、そういった時代の反映に加え、地域/コミュニティーとの関わりも深い。ニューオリンズがジャズの発祥の地というのが良い例だし、マンチェスターサウンド、ロンドンパンク、シカゴ音響、めんたいロック、デトロイトテクノなどと地名でカテゴライズされたりもする。1991年、名古屋のELLでは、僕(ROOTS)が、シュウちゃん(THE ウォーターズ)とリメちゃん(the バーナム)というパンク世代の兄貴たちと共に、当時のエネルギーを真空パックしたオムニバスCD、「今池式」。僕は、このメンツの中にいると「青臭いガキ」になれる。そして2011年1月8日に、みんなが20年ぶりに集結してくれることになった。世代とコミュニティーが反映されるとはどういうことなのか、今池ロックとはなんなのか、是非、その目で確かめに足を運んでほしい。

もくのあきおは、在米16年。ニューヨーク市立大学院でメディアアート・パフォーマンスの修士課程に在籍し、ノイズやエレクトロニックなどのバンド活動も平行している。「今池式2011」の特設ブログもチェックされたし。http://imaike2011.jugem.jp/

 

www.myspace.com/spiraloop

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