ニューヨーク特派員報告
第168回

「市民的不服従2015」


21世紀が始まってからの『特派員報告』のアーカイブを作っていて、10年前の2005年に『市民的不服従』という文を書いていることを発見した。ローザ・パークスという公民権運動の象徴的人物の他界の話から、当時の米ブッシュ政権への批判につながる内容のものである。デモへの参加は、2001年のアメリカのアフガン侵攻以降、賛同できるものにはするように努めている。最近では、労働組合の組織代表もやったりもしている。我々、一般市民は権利を主張するためには、こうやって組織だって行動する必要があると感じるからだ。権利とは、与えられるものではなく、時として、勝ち取るものなのだと思う。実際、僕の働くコロンビア大学でも、過去に数回、労働者の補償問題でデモとストライキを行い我々の条件を受け入れてもらうに至っている。

そんな僕なので、SEALDsの登場や日本全国で盛り上がっている市民運動に、感動していることに察しがつくであろう。8月30日の国会前を中心に、全国各地で行われたデモにも感激した。安保法制だけでなく、辺野古移設や原発再稼働に反対する運動も応援している。とくに学生は、反政府運動するには、とても心強い存在だ。彼らは、まだ実社会の利害関係が影響している組織に染まっていないし、知識も備わっており、想像力も豊かである。またエネルギーと行動力にかけてはズバ抜けていて、組織力もある。”This is what democracy looks like!”彼らのシュプレヒ・コールは、ロックだ。それは「利己的」なものではなく、その根底にあるものは倫理的で意義のあるものである。こういった動きはヘイト・スピーチをする人たちや現政権を支持する人たちの対抗的な存在となりバランスもとれる。

アメリカでの過去のデモ経験から見ると、3点、重なる現象がみてとれる。ひとつは、国家機関(大抵は警察)とデモ主催者側から発表される参加者数の極端な差。これは、参加する人が入れ替わり立ち替わりするので、延べ人数として数えるか、もしくは大まかに人が埋まった面積から割り出すかということにつけくわえ、主観的なバイアスもまじっていると分析する。もう一つは、デモはどんなに規模が大きくなっても大々的に報道はされない。一部のリベラルなメディア以外は、3面記事あつかいである。そして3つ目は、どんなに賛同者が多くても、即効性はないが、その後の政局に打撃をあたえることにつなげられる。ジョージ・ブッシュ政権時代、かなり大規模な反戦デモ(国連周辺の大通り3、4本が人で埋まったこともある)が起こったが、戦争を止めることはできなかった。しかし、その次の大統領選において共和党は破れることになり、彼はアメリカ史上最悪の大統領だとまで言われる存在となったのだ。

デモという運動は、平和主義的でその活動も基本的には非暴力。かつてガンジーやキング牧師が提唱し、実践していた市民的不服従である。この社会運動は、即戦力はないかもしれないが、一般市民側からの政治的主張を明確にアピールすることによって、風潮を変えていくことができる。政府が掲げる(粛々とおしすすめる)国のあり方をただ受け入れるのではなく、どうあるべきかを個人が考え、それに向けた運動を起こすことは、民主主義社会に生きる市民として時として必要であろう。

参院での安保法制採決の期限が近づく現在、膨らみつつある日本のデモを行っている人たちの、目的ははっきりしている。休日を返上し、路上を行進する年配の方々や、お母さん達を見ると頭がさがる思いである。もちろん、こういった運動や彼らの主張に異論を持つ人はいるであろう。支持派のデモもあるみたいだし。(こっちでもドナルド・トランプのような差別発言をする人間を支持する人もいる)いろんな考え方があって然りであろう。主張の中には同じ固有名詞がつかわれていても、一方は否定し、一方は肯定している。そしてその動機もまちまち。いかに「平和」や「正義」という概念が不確かなものであるかということである。いろいろ勉強するいい機会かもしれない。

もくのあきおは、ニューヨーク市立大学の修士課程にてモートン・サボトニックのもと電子音響音楽の作曲を勉強しつつ、ノイズバンドなどにも参加している。

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