ニューヨーク特派員報告
第171回

猫のオントロジー


ひょんなことから、友人の猫をしばらく預かることになった。名はララと言う。オスであるが、去勢している。猫と僕だけで暮すのはこれが初めてだけど、猫と暮らしたことはある。しかしいつも同居人の飼っている猫だった。だから、ご近所さん程度のなつきかたで、風景や家具みたいな存在であった。しかし今回は僕が世話をするということで少々緊張した。が、何のことはなかった。1日2回餌をあげて、気がついた時にトイレを掃除するだけでよかった。ただ毛がよく抜けるので、思い切ってダイソンのコードレス掃除機を購入し、1日2回掃除をするようにした。

ララとの暮らしは生活を一変させた。なにかとかまってもらいたがるし、こちらもほっておけないので作業に集中しにくい。寝ている時も歩き回るので目が覚めてしまう。猫はダラダラしているので自分もついダラけてしまう。など一見、良くない影響を与えているようでありながら、実はそういうことによって自分の中にある煩悩の一部が浄化されていることに気がついた。愛情を注ぐことによって、自分も幸せになれることもあるのかなあ。まったくの一人暮らしをはじめて4年目、自分ではない生命体と生活空間を共有することについて考えさせてくれた。プライベート空間は、すこしソーシャルな場となる。

猫という存在は、どこか哲学的でもあるように感じる。量子力学で有名な「シュレーディンガーの猫」の仮説や漱石の著書「我輩は猫である」。はたまたポーの小説「黒猫」にいたるまで、単なる愛玩動物だけでない2次的な意味もそなえた記号として登場している。そこに描かれているように、猫という動物は、思考を誘うメタファー的存在として日常の中にいる。コミュニケーションに言葉を使うことができない分、こちらはいろいろ考える。その生命体は動いているので、目に見える変化が常にそこにあり、なにかをすれば反応がある。生活を共にしているとどこかでバイブが共鳴し阿吽の呼吸でのやりとりが生まれてくる。

以前、ニューヨークタイムスで、日本の老人達の間ではアイボが人気という特集をみたことがある。アイボはロボットで、電気仕掛けであるが適度に面倒を見なければならないので、認知症の予防にもいいそうだ。面倒くさければスイッチをきればいいし、排泄の面倒もみなくていいから超簡単である。そして、用のすんだアイボはお寺でお祓いをして供養する(いかにも現代の日本らしい)のだそうだ。ロボットに愛情を注ぐことで癒されるというのは、人間本来、与えることによって得るものがあることの証かもしれない。

人は自分の存在を知るためには、他者が必要なのではなかろうか。ペットは、言葉を使わなくても飼い主を認識している。自分を認識している存在と生活すると、その存在の中に自分の反映をみることもある。愛を与えれば、愛が返ってくるし、苦を与えれば苦がかえってくるのであろう。そこにある関係性というものが、人間のシンパシーに作用し幸せのヒントを与えてくれるのではないかと考えた。

ララは、昨晩、友人の家に帰って行った。ララのいなくなったアパートには、なぜか、その残像がちらつき、鳴き声の幻聴がするようだ。こうやってタイピングしていると、いきな椅子の背もたれに飛び乗ってくるのではないかという気がするくらいだ。朝方になると傍に来て、僕の手を枕に川の字になって寝たララは暖かかった。ニャンか寂しい。

もくのあきおは、ブルックリン大学の修士課程にて電子音響音楽の作曲を専攻しつつ、ノイズバンドなどにも参加している。

http://www.akiomokuno.com

copyright