ニューヨーク特派員報告
第189回

実験ウィークエンド


自分を使って色々と実験をしてみることが好きだ。4年間続けたベジタリアン生活も、10日間の瞑想も、炭水化物抜きダイエットや断食も、マラソンも、全て自分の肉体を使った実験だと思っている。今回僕は、メモリアル・デーの3連休を我が家で、全ての外界との繋がりや情報を絶って、自身を監禁して瞑想してみようという試みをしてみた。普通なら、夏の始まりのこの季節、どこか遠くの自然の豊かなところへ出かけ、ゆっくり時間を過ごすパターンが多いのだが、あえて篭ることを試してみたかったのだ。

ズバリ結果から告白すると、それは失敗であったとすぐに気がついた。こういった長期の集中した瞑想は、山の中の施設か、同じような人々が集う会場などでしか行ったことがなかった。そこには、酸素の多い空気や、都会では味わうことのない静けさ、そして瞑想しようという人々のヴァイブがよりモチベーションをアップする。だが、僕の暮らすブロンクスの生活空間は、近所から聞こえてくるラテン系の音楽やヒップホップ、子供たちの声などが響き渡り、夕方になればあちこちから夕食の香りが漂う日常に囲まれてのことであった。

最初の3時間くらいは良かった。それくらいのスパンは周りの雑音をシャットアウトできる。しかし、しばらくして苦しくなってきた。繰り返し、繰り返しアタックしてくる煩悩が原因である。目をつぶれば、考えても拉致があかないその「悩み」が浮かんで来る。何度も払拭しようと意識をずらす努力をしたけど強力な何かがそこに引き戻して来る。そもそも脳内のケミカルバランスのメンテを目的としていたのに、苦痛と戦うというストレスになっては意味がないと感じ、1日目の午後すでにリタイアしようと考え始めた。

理性の下にある本能という強烈なエゴによって、日々の行動は決定づけられることが多いのではなかろうか。動物としての生に対する強烈な欲求をコントロールするため、普段はそれなりの方法を持って対処している事に気付く。例えば、ロールモデルとなる人の言動に耳を傾けたり、前向きな意見の書物を読んだり、知的好奇心を駆り立ててくれるようなアートに触れたりすることで、低いレベルでの欲求を昇華する方向に持っていくことができる。しかし、全ての情報を断ち切った状態で、自らの力で本能的欲求をコントロールすることは、かなり無理であった。わざときつい座り方をして肉体的苦痛を与えることもしたけれど、それによって意識をそらす時間にも限界があった。

もしかしたら日々の行動パターンには、欲望を満たす方向と欲望をコントロールする方向の2パターンが根底にあるのかもしれないとも思った。後者は意思の力を必要とするので、実施し続けるには訓練が必要であろう。例えば空腹を感じた時に、食べるべきか待つべきか、また何を食べるべきかなどを決定する際に、味覚の快楽を選ぶか、栄養による健康効果を考えるかなどの選択の根底にもそのパターンは横たわっている。

2、3日目は薄暗い早朝に起きて、人のいないムラーリ公園を散歩した。動かないので昼と夜に少しだけ食べて、眠くなったらすぐに寝た。まるで無気力で引きこもりになっているかのような状態だが、目的を持ってのことである。その後も2、3回、真剣に中断を考えたけど、宣言して臨んでいたので貫くことに踏みとどまった。しかし、3日目の午後、昼過ぎ、またしても煩悩アタックがあった時に音をあげた。もはや目を瞑ることすら怖くなった。仕方がないので、般若心経についての本を読むことにした。50時間以上の情報断食の後なので、とてもスムースにかつ集中して読むことができた。考えてみれば瞑想施設でも法話が聞けるわけであるから、これくらいの外部からの刺激は問題なかろう。

アメリカの大学での最近の実験結果で人間は部屋に篭ってじっとして考えるくらいなら電気ショックを自ら望んで受ける傾向にあるという話がある。意識的にしろそうでないにしろ一見何も無いように感じる日常でも、いろんな事が起こっているし、起こしているわけだ。その根底にある生への渇望と2日半、睨めっこしたことは、いい経験でもあったということにしておこう。

もくのあきおは、作曲家でノイジシャン。主に電子音響を用い、前衛、実験的、そしてパフォーマンス的要素の多い作品が多い。

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