内田を呼んでエルでやる話。その前に、これを読もう 沖てる夫 |
●6月19日は月曜日
「第八旅団!?そんなバンド知らんがね」。
「ドスキゼオスぅ?何じゃ、それは」。
「内田カンタロー?知らんな。北風小僧のカンタロ〜なら、知っとるけど…」。
知らん人は知らんでも、ええの。とにかく、知っとる人も知らん人も「6月19日はエルへ、いりゃあ」という文章を今から書きますので、よろしく。
大須に「エル」ができる前は、名古屋で「エル」といえば、サイズの大きい服を意味していた。ぼくも背は高い方なので、つねにエルの服を着ていたのだが、いつのころからか「エルへ出た」だの、「エルで観てきた」だの、何やら変なことになってきてしまったのだ。
これでは、いかん。と誰もが思うので「エルは何だ?」ということになる。
「ライブハウスだがや」
「どこの?」
「大須。スケートリンクの すぐ近く」
「行った?」
「まンだ」
そんな顛末があって、名古屋でエルといえば、ライブハウスだと思われるようになっていったんだろうと思う。
エルを経営してるのがシゲチャンだ、というのも次第に知れわたっていく。シゲチャンはジミヘンの大大大フアンらしいということも分かってくる。そして、ジミヘンに「ELECTRIC LADY LAND」という曲があって、その頭文字をとってELLになったんだと、朝日新聞にも載った。BBSも取材に来た。人民日報はコラム扱いにした。ウソに決まっとる、である。
●「第八旅団」とシゲチャンは、長い。ぼくが「第八旅団」を結成したころには、確かにELLは、もうあった。だから、そこに出ようということになった。第八旅団のELLでの初ステージは、今から20年前。当時はギター(アコースティック)、ドブロ、パンヤ(タブラの2つの太鼓のうち、低い音の出る方)、チベタン・ベル、笛などのほか、琴なんかも入れてやったことがある。
演奏も歌も、すべてがフリーのインプロビゼーションで、コードは最初から最後まで、Dのみのワンコード。これで1曲あたり延々30分くらいやるわけだ。
お客さんの反応も様々で、ええがね!という人もおりゃあ、あかんわあ言う人もおる。やっとる方は気持ちいいもんだで、そんならそれで、ええがや、ということになる。でもチューニングは、いつも文句言われたな、シゲチャンに。
そうそう、今はどうか知らんが、当時シゲチャンはミキサーの仕事を一手に引き受けていた。
で、第八旅団の場合、1曲がとてつもなく長いので、ミキサーもラクといえばラクだが、退屈といえば退屈だったんだろう。シゲチャンは、ぼくたちの演奏の最中に、勝手にエコーやデレイをかけたりして、今でいうならダブ風のミキシングに手を染めていた。これがまた気持ちがよかったんで、これもまた、ええがや。ということになったのは、むしろ当然。
そうこうするうちにも、第八旅団は確実にメンバーが増えたり(一時は10人以上いた)減ったりしていったが、決してうまくなることはなかった。だから演奏後、つねにシゲチャンの長い長い説教があって、その後いくばくかのギャラをもらって、酒を飲むのであった。
そういえば、ぼくが作詞した憂歌団の「ミッドナイト・ドリンカー」、ドスキゼオスの「ミッドナイト・ドランカー」は、あの当時に大須で作ったんだったなあ。 (なお、上記の2曲はどっちも同じだけどちょっと違う。知りたい人は6月19日に来れば、ワカル)
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